ジェームズコズボーの証言(第5章)

転載元:ただのメモ帳

[原文Chapter5]はこちら

 

1981年-5歳。

二人の男に、ロンドンのフェンチリーにあるチャルグローブ小学校から連れられ、グリーンハムコモン軍事基地に車で連れていかれました。

グリーンハムコモンのBRAVOに輸送され、地下のAL/499施設へ15人の他の子供たちと共に超能力テストのために連れていかれました。

そこでは私たちの目の前で一人の小さな女の子が攻撃犬の入った檻に投げ込まれ殺されるという儀式がありました。

これはすべて撮影されました。

この映像はおそらく「スナッフフィルム(娯楽用途の殺人映像)」として諜報機関周辺に渡されました。

15人の子供たちは将来の訓練のために5人の3グループに分けられました。

子供の年齢はおよそ5〜10歳の範囲です。

 

当時私はロンドン北部にあるフィンチリーで母と住んでおり、父は麻薬密売の件で捕まっていたスペインの刑務所から出所してレディングに住んでいました。

私はある昼下がり、バークシャー州のグリーンハムコモン軍事基地に二人の男に白い車で連れていかれたのを憶えています。

この時の多くの詳細は回帰療法によって思い出してきましたが、基地の正面ゲートまで引っ張られたことはずっと憶えていました。

出来事の流れは以下の通りです。

助手席の男が後ろの私に振り向いて、「ここには核兵器が保管されているんだ」と言いました。

私は後になって気づいたのですが、これはその施設で子供たちの輸送をしていることを隠すためでした。

核兵器がそこにある可能性もありましたが、グリーンハムコモン基地の主な役割は子供たちを全国各地の施設に連れていくための地下通路でした。

私たちは地下トンネルがある所まで基地の中を車で進んでいきました。

この大きなトンネルには二車線の道路があって、その道路を下って行くと平らな地下駐車場に着きました。

そこには左側に軍のトラックが停まっていました。

ここには小さなブースが二つあり、それぞれに一人ずつ警備員が座っていました。

トンネルはブースの先にもずっと続いていました。

私の右側には15人ぐらいの子供のグループがドアのそばに立っているのが見えました。

子供たちはみんな肩に毛布をかけていて、軍服を着た男が子供たちの左側に立っていました。

彼らは何も話していなくてただそこで待っているだけのように見えました。

 

私は車から降ろされて毛布を渡され(そのトンネルは寒かった)、民間服を着た助手席の男に他の子供たちと一緒に集められました。

そのグループはほとんど男の子でしたが、女の子もいました。私たちのほとんどは同い年のように見えましたが、何人かは背が高く少し年上のように見えました。

そこから私たちはスーツを着た男に先導されてドアを通って行き、廊下をいくつか歩いて教室のような部屋に着きました。

部屋には机と椅子があり、私たちは各自座るように言われました。

部屋の前方に男が立っていて、その部屋に女性が入ってくるまで私たちは数分待っていました。

彼女は私たちの机の隣にワゴンカートを押して回り、それぞれにパズルのようなものを手渡しました。

私たちは幾何学的な図形を合わせなければいけませんでした。

女性は黒髪の中年で、綺麗で、オフィスタイプの暗色のスカートと白いシャツを着ていました。

パズルがすべて私たちに行き渡ると彼女は部屋の前方へ立ち、3分でそれらの図形を合わせるよう言いました。

彼女が「はじめ」と言うとストップウォッチが押されました。

私はどれぐらいできたか忘れましたが、時間が経ったので彼女はやめるように指示し、結果をクリップボードに記しながら私たちを周っていきました。

 

その後事態は最悪になりました。右側のドアから急に男のグループが駆けつけてきました。

彼らは荒々しく私たちを席から引っ張り出しました。

私たちは、おびえ、悲鳴を上げ、もがきました。

そして私たちは無理やり運ばれて何人かはドアから外の廊下へ引っ張り出されました。

女性は大声で攻撃的に叫んでいましたが、これは私たちに向けられて言っているようでした。

それでも悲鳴やパニックは続き、私たちは車輪付きの担架に縛りつけられて医療型の設備のところまで廊下を進み、白衣を着た医師に薬物を注射されました。

その後さらに廊下を進むと、大きくて暗い部屋に着いて、そこには大きな犬と大きな狼のように見える何かの生き物が入った檻がありました。

私は大きな猫(トラやライオン)や他の動物の声を聞いたのを憶えていますが、暗くて部屋の奥は見えませんでした。

私たちを教室から引っ張り出した男たちがさっきの女性と一緒にそこに立っていて、彼女は男たちに担架から私たちを解くように指示しました。

 

彼らがそうすると、私たちは防御するために体を寄せ合って立ちました。

この時点で私たちは薬を打たれていたので、それにより落ち着いて従順な状態でした。

その女性は私たちにこれから「choose one」というゲームをすると言いました。

彼女が何か「first chosen one」と言ったのを憶えているのですが、これは今思うとフリーメーソンの用語じみた感じがします。

フリーメーソンでは女神のエネルギーが崇拝されていて、多くの儀式が「大地の女神」像に基づくという事実を考慮すると、私は次に起こったのはフリーメーソン/悪魔崇拝の儀式だと思います。

彼女は大地の女神の役をするかのように色のついたリボンの束を彼女の左側の壁にかけ、私たちにそれぞれ一つずつ取るように言いました。

私たちはそうすると再びもとの位置に戻って立ちました。

彼女が「深紫色のリボンを持っている人は誰?」と聞くと、私たちは持っているリボンを見下ろしました。

その部屋は蛍光か赤外光のような光で照らされていたので、リボンはサイケデリック(極彩色)な雰囲気に輝いていました。

 

私たちのグループの左側の小さな女の子が「私です」と言うと、女性は男たちの一人にうなずき、その男は女の子をつかみ、私たちの左側にあった檻の方へ乱暴に運びました。

女の子はもがいたり泣いたりして、私たちも恐怖で泣きわめきました。

その時から檻に入っていた犬が吠えて狂ったようになっていましたが、その男は檻の扉を開けてそこに女の子を投げ入れました。

 

シェパード型の犬や狼のようでしたがそれよりはるかに大きかったです。

この動物はそのアゴの力で女の子をぬいぐるみのようにつかみ上げて振り始めました。

私はこの後のことを思い出すのが困難であり、それは思い出したくないからなのかちょっと分かりません。

この出来事を目撃したことやそれについて書くことにさえ罪悪感を感じます。

同じようなプロジェクトを経験した他の生存者は、それは非常によくあることで「生存者の罪悪感」と呼ばれていると私に言いました。

 

1984年-8歳。

休日に父を訪れた時、政府の私有地の森にあるバーナムビーチズOMEGAまで連れていかれました。

ここで蛇シャーマニズムの儀式を受けます。

ここでも全てとは言わないまでもほとんど、マネキン計画のプロセスは科学の名の下に撮影されます。

父もまた子供と大人の時期にここで洗脳されました。父は子供の頃に定期的に祖父にここへ連れられてきました。

洗脳儀式の流れは以下の通りです。

 

私たちは高級ホテルに滞在していて、父は電話をするために外へ出ました。

父は部屋に戻るとドライブに行こうと言いました。

どこへ行くのか聞くと、父は「それは言えない」と言い、道中ほとんど何もしゃべらないままバーナムビーチズまで車で行きました。

私たちが到着した頃にちょうど暗くなってきました。

私たちは車を停めてある男に会い、父と男は話をしました。

私はこの男に案内されました。

森へ入っていくと、ローブを着てフードを被った人々がそこに集まっているのを見ました。

何人かは光る杖のようなものを持っていて、それが暗闇で光っていました。

彼らは私を囲んで円になり、奇妙な言葉を唱え始め、それは今思い返すとヘブライ語やアラム語のように聞こえました。

1981年の出来事にもあった「chosen one」のような言葉がその詠唱の中にもありました。

 

ローブの女性が多彩な蛇を持って私に近づきました(1981年のあの女性だったかもしれません)。

彼女は私の腕の袖をまくって蛇の頭の上を押しました。

蛇がシャーっと鳴き、彼女はその頭を掴んで私の腕に持っていき、蛇は私の腕を噛みました。

毒がまわるのがとても速かったようで、かなり具合が悪くなりました。

いくらか時間が経って私が回復すると、ローブを着ていた何人かが今度は裸になっていました。

さっきの女性が別の蛇(少し違う色だった)を持ってきて、私はまた噛まれました。

また同じようにかなり具合が悪くなったのですが、今度は死にかけました。

回復させるために注射を打たれて、回復しました。

そのあと大きな穴とその横に棺があるところへ連れられました。

棺が開けられると大きな蛇でいっぱいでした。

私は非常に弱った状態で持ち上げられ、その棺に入れられました。

そして生き埋めにされました。

何時間も埋められたかのように思われました。

棺の中で逃げ場がなかったので、私の心は解離してどこかへ行ってしまいました。(棺の中の大きな蛇は無毒だったように思われました。)

 

1986年-10歳。

母と私は義父と一緒にレディングに引っ越しました。

レクリエーション通りの端にある森林で遊んでいたところ、二人の男に連れられ、AL/499施設まで送られました。

大人になって当時向かいに住んでいた女の子から不意に連絡がありました。

彼女の記憶には大きなギャップがあるらしく、私たちが子供の時にTR-3/Firefly型の特殊部隊航空機がその森林に着陸するのを見たのを憶えていると言いました。

 

私は後にNSAの「Sylus」という人物と会い、この件に関する私のプロジェクトマネキンのファイルを受け取りました。

私が信用している諜報機関の他の知人がこのファイルが本物であることを裏付けています。

 

<中略:原文には実際の通知文が記載されています>

 

1988年10月4日、AL/499施設のある大きな部屋にトレーニングエリアが設置されました。

少数の観衆が入って席に着いていました。

私は当時名前が分かりませんでしたが、とても有名な政治家もそこにいました。

私は年上の男の子と素手の戦闘試合をすることになっていました。

クラビウス司令官はこの時の私の担当でした。

身長は180センチほどの中ぐらいの体格で黒髪でした。

時にはスーツパンツに白のシャツとネクタイで、時には特殊部隊の「オールインワン」タイプのジャンプスーツを着ていました。

彼はアメリカ英語訛りで口臭がひどかったです。

 

試合が始まると私は右クロスパンチを入れ、相手を床に叩き、その頭を踏みつけました。

この時点で試合は止められ、私はクラビウス司令官にとても褒められました。

このあと報酬として子猫が持って来られましたが、ここからまた事態はひどいものになりました。

操る人というのは相手を混乱させるために極端に親切なところからサディスティックになるものです。

私はナイフを手渡され、その子猫を刺し殺すように言われました。

私が拒否すると司令官は私の顔に怒鳴って、ひっぱたき始めました。

それでも私は拒んで鼓動が激しくなりました。

私の精神は解離し始めて昏睡状態のようになりました。

観衆にいたアメリカ英語訛りの別の男が「おまえが殺せ」と叫ぶと、クラビウス司令官は「了解しました(Yes sir)」と応え、彼は自分で子猫を殺しました。

私は深く解離してトランス状態が深くなりました。

 

私はこの試験に落ちたので身体的な暗殺には向いていないとみなされ、訓練はリモートビューイングや繊細なエネルギーの習熟の方向へいきました。

しかし身体的な武術の訓練は続き、彼らは私が16歳になるまでには最初の暗殺の仕事を試すと決めました。

 

1989年-13歳。

中学校が始まりました。

母は家からとても遠いレディングのDenefield学校に通うように言いました。

他にも家から通える近所の学校はありました。

後で分かったのですが、Denefieldはマネキン計画と関わりがありました。

ここで私は学校のいたるところでいじめの対象となりました。

これらの少年たちは私よりも年上で、大きく、強かったです。私は彼らに対して無力だと思っていました。

 

ある日の午後、グラウンドで二人の上級生に攻撃され、腕の骨と顔の骨をいくつか折られました。

腕が折れた状態で地面に横になっていたところ、彼らは私の顔を踏みつけました。

母が呼ばれ、病院へ連れて行ってくれました。

病院まで痛みはなかったと憶えています。

腕はボロボロで金属のプレートが埋め込まれました。

数週間入院しました。

 

退院すると義父の寝室に児童ポルノテープがあるのを発見してそれを見ました。

そこではフリーメーソンのロッジでエジプトの衣装をまとった男たちに子供たちがレイプされていました。

またそのテープには同性愛者の男たちが床に三角形に位置して乱交しているシーンが含まれていました。(注釈:おそらくそのテープの中で)義父が私を虐待していました!

上級生からのいじめは学校や放課後の地元でも続きました。

私には逃げ場はないのだと思って、さらに心は解離しました。

 

1989年-13歳。

私は友人グループとレディングの町の中心部であったローカルフェアに参加しました。

中に入る前、私は最初の部分までタバコを吸っていました。

私はいじめをしていた上級生たちを見つけ、彼らも私を見ました。

彼らはフェアの端までずっとつけてきて、彼らのうちの二人が私をトイレの裏まで引きずり込み、上着や頭を引っ張って殴ったりしました。

それが終わった時、私は上着が顔にきつく巻き付けられて息ができませんでした。

私はそれを解けませんでしたが、見ていた少年が群衆の中から出てきてそれを剥ぎ取りました。

私は立ち上がり、殴ってきた男を見ました。

彼は17歳ぐらいで、私は彼を恐れました。

しかし急に強さと勇気のエネルギーが私に入ってきました。

私は彼に駆け寄ると一発のパンチで彼をノックアウトさせました。

彼の友達は皆驚いて後ずさりしました。

 

これによってフェアから抜け出す隙ができました。

私たちは橋を渡って後ろを振り返ると15人ほどの若者の群れが追いかけてきていて、さらにその後ろに50人ほどの若者の野次馬の群れが追いかけてきていました。

友人は「走れ」と叫び、私たちは全力疾走しました。

橋を過ぎたら通りの端にあるパブに入るつもりでした、安全だろうと思ったので。

そう考えていたら、群衆の先頭を走っていた黒人の少年が私たちに追いつき始めました。

彼のスピードは驚くべきものでした。

私は捕まったら殺されると思いました。

 

彼は私を捕まえて、仲間が追いつくまで離しませんでした。

私たちはパブの手前の暗い橋の下で捕まりました。

彼らは私の友人を一人にして、野次馬の大きな集団が集まってくるまで、私は小さなグループに押さえつけられていました。

長い延々とした攻撃が始まると、その間私の友人はやめるように叫びました。

ある時点で、次もう一度顔を殴られたら死ぬだろうと感じました。

この時私の意識は体から離れました。

そして私は上から自分の身体を見下ろしましたが、私の体はまだ戦っていました。

大柄なジャマイカ人の少年がとどめをさしにきましたが、私は右クロスで彼を倒れさせました。

そして相手の仲間が加勢してきたので、すぐに立て直しました。

私の半分の意識がある体は横たわった状態で、靴と上着を取られました。

今度は大きな集団の野次馬の何人かが走ってきて、私の頭を蹴りました。

最後には全員逃げ出しましたが、私の友人は勇敢にも私の靴や上着を取り返そうとしました。

私が倒れている間に、さっき私が倒した少年が反撃しに戻ってきました。

私の友人が走ってきて「もう十分だろ!」と叫ぶと、その少年は地面に倒れている私を見て立ち去りました。

 

道路に横たわっていても、車は私のそばを素通りしていき、誰も止まってくれませんでした。

友人がパブまで連れて行ってくれて、病院まで連れて行ってもらうよう私の母に電話しました。

私の顔や頭はひどく腫れていて、医者は私が生きているのはラッキーで、こんなことをする奴は「ケダモノだ」と言いました。

私は数日間病院で観察されました。

この時までには私の家族は完全に解離性同一性障害で、今では区画化されたトラウマがとても簡単に発症します。

私はこれ以来その友人を見たことがありません。

 

1990年-14歳。

母は「もうたくさんだ」と思って私をコーンウォール州のセントアイブスの父のもとへ移しました。

 

一週間のうちに私は何もしてなかったのに海岸通りで地元の不良に殴られました。

私はもうこれ以上傷つけられたくないと誓っていて、大体いつも武器を持ち歩いていたので彼らをヌンチャクで叩きました。

その後、私は誰にも絡まれなくなりました。私は家に帰って泣き崩れました。

「どうしてみんな俺を憎むのか?」と。

 

私は地元のある少年と会いました。

あとで分かったのですが、彼もまた洗脳されていました。

私たちは雑誌で銃のレプリカを注文しました。

そして地元のスーパーでマスクを被って強盗しようと決めました。

店に行く途中で友人が怖気づいたので、私は「やるしかないだろ」と言って、走って店に入り込み、彼も走って私についてきました。

 

私はレジの向こうにいる少女にレプリカの銃をつきつけ金を要求しました。

友人は周りに立っていた何人かを店の奥にやって、彼らに銃を向けました。

金を要求すると少女は青ざめて応じなくなりました。

私はカウンターを飛び越えて自分でレジを開けようとしました。

レジを開けるボタンが分からなかったので、手当たり次第にボタンを押しました。

レジの警報が鳴り、店の奥にいる人々が叫び始めました。

私はパニックになり「××××、行くぞ!」と友人の実名を叫び、私たちは走って店を出て家に戻りました。

私たちは私の父にそのことを話すと、父は私を誇りに思っているようでした。

およそ1時間半後、家の外の通りで武装した反応がありました。

父はレプリカの銃を家の奥に隠しました。

ドアが蹴られるのを待ちましたが、それは起きませんでした。

その小隊は隣に住む若者に用がありました。

彼は過去にエアガンで問題になっていて、私たちがやった武装強盗の第一容疑者になっていたのです。

翌日、その強盗事件は地元のニュースになっていて、父はよりいっそう誇らしげに見えました。
(注釈:1章などでも説明がありましたが、マインドコントロール計画では周囲へ情報が漏れないように家族全体が洗脳されているようです)

 

しかし数週間後、結局私たちは警察に捕まりました。

私はガールフレンドを驚かそうと自分がやったことを大体話したのですが、彼女の父は警官で、彼女は最終的にそれを父親に言ってしまったのです。

友人と私はトゥルーロクラウン裁判所に行くはめになりました。

私の弁護士は母に私が数年刑務所に入る可能性があると言いました。

しかし結局28日間でした!

 

私たちの判決が下された時、母はこれまで見たことがないような悲痛の表情を見せました。

被告席から母を見たとき、人間とは思えないほど顔を歪めていました。

これまで母が怒った時そうするのを見てきましたが、これほどひどい顔をしたのは初めて見ました。

友人の母はそうはしませんでした。

 

私はフェルサム青少年犯罪者収容所に移り、そこにはナイフで強盗をして数年服役している少年たちがいました。

私は短い服役期間だったので他の少年たちから、警察に情報提供したのだろうと非難されました。

ここではいじめがはびこっていましたが、不思議なことに初日にボスのようなポジションになって一人浮いていました。

一人の少年がアメニティの入った靴下で別の少年を殴り、その手作りの武器を私のベッドに放りました。

私はそれを持って彼にまっすぐ歩み寄り、彼の目を見てそれを彼の手に返しました。

「こんなことに関わりたくない」と言って。

 

私の派閥のうちの3人が私がそこにいた短期間で自殺しようとしました。

共同部屋のある一室で性的虐待が行われているという噂があって、その部屋は閉められました。

夜に鉄骨階段を上がってくる警備員の足音と、ドアが開けられて少年たちがどこかへ連れられてしばらくしてから戻ってくる音を聞きました。

私が刑務所から出ると、誰も私にちょっかいを出したいと思いませんでした。

そして私は間違った思考になりました。

相手が自分のことを恐がれば傷つけられることもないので、銃や武器や暴力が幸せの道だと考えました。

 

1992年-16歳。

一定期間すべての銃器の使用を法律の下に禁止することに承諾し書類にサインしました。

私はセントアイブスに戻っていて、母は数日間どこかへ行ってしまいました。

母は代わりに叔母さんに私の面倒を見させました。

私は電話を受けてブライトンへ行くことを言いましたが、叔母さんはそれを止めようがありませんでした。

私は邪悪なエイリアンの顔のようなタトゥーを初めて右肩に入れて、ブライトン行きの列車に飛び乗りました。

 

列車を降りると私の小隊の男メンバーである「ジョン」が私を待っていました。(訳注:第一章で説明されていた5人1組の小隊のことだと思われます)

何を言われたか正確に思い出せませんが、弾のこめられた9mmスミス&ウェッソンが入ったバッグを渡されました。

会話の要旨はだいたいこんな感じです。

「君はターゲットを知っている。ここに銃がある。行って殺して来い」。

私は海岸通りを歩いていって、飲み屋の外で待機しました。

外の席でビールを飲んでいる男がいました。

彼は短い金髪で背が低く、筋肉質な体格で半袖シャツを着ていました。

 

私は彼に目をつけました。

バッグから銃を取り出し、セーフティを外し、彼に歩み寄りました。

そして彼の頭と胸にマガジンのほとんどの弾を撃ち込み、私を止めようとする人がいても逃げられるように数弾は残しておきました。

私は銃を撃ち始めたとき、心の中のすべてが静かになりました。

私は後になって諜報機関の人に、その任務は私が10歳の時にAL/499で見た有名な政治家のために行われたということを教えられました。

 

男を殺して逃げたあと私が次に憶えているのは、1キロメートルほど離れた浜辺に座っていたことです。

アドレナリンが急上昇したところから落ち着いてきて、自分自身に満足していました。

たぶん彼らはもう私を傷つけないだろう、そう思っていました。

私は服を脱いでボクサーパンツのまま泳ぎました。

この後、海岸沿いを歩いていると私の小隊の「ジェニー」という女性メンバーに会って、彼女は私からバッグを受け取ると、後催眠の言葉を言い始めました。

私は自分がやったことを忘れ、列車で家に戻りました。

その後ブライトンの叔母さんの家でやっていたパーティに参加し、ある女の子が海岸沿いでの銃撃について私に話しました。

彼女からその話を聞いてさえも私はそれをやったことを思い出すことができませんでした。

 

 

yukio4さん、翻訳をどうもありがとうございます。

ABOUTこの記事をかいた人

フリーランスの画家として活動しています。 愛知大学卒業後、青年海外協力隊で南米ボリビアの首都ラ・パスの国家警察学校で空手に当たる。現地で絵を描く楽しさを知り、帰国後独学で技法を学ぶ。その後、創作活動をして個展を開催する傍ら、ラオス、スリランカ、エルサルバドル、フィジーに空手の指導に当たる。今までの経験を創作に活かし「明るく、楽しく、やさしい絵」をモットーに元気に活動中。