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ハナムラ・ヒロユキ(花村弘幸)/フリーランスの画家
愛知大学を卒業後、青年海外協力隊に参加し、南米ボリビアの首都ラ・パスの国家警察学校で空手の指導に当たる。
帰国後、逆カルチャーショックに苦しむ。絵の技法を独学で学び多くの個展を開催する傍ら、空手を教えながら海外を飛び回る。
結婚して二児を授かり、イクメンをしながら創作活動に励む。「明るく、楽しく、元気になるような優しい絵を描く」がモットー。
生まれてから今まで どういう人生を歩んできたか
誕生から小学生
1977年2月28日、岐阜県各務原市に4人兄弟の長男として生まれました。
父は電気工事士、母と祖母は焼きそば屋を営んでいました。
当時父は空手の指導員をしていたので、私も3歳から空手を始めました。
このころから絵を描くことが好きで、新聞チラシの裏に鉛筆でよく絵を描いていました。
小学生になると勉強についていけず、授業中はマンガばかり描いていました。
小学生の時、アパレルのコンテストに出したら賞をもらえました。
勉強はできませんでしたが、図工は得意でよく賞をもらえました。
宿題や物をよく忘れるので、廊下に正座させられる機会がよくありました。
先生や遅刻をしてきた子のお母さんに「姿勢がいいねぇ~」と誉められることもよくありました。
そんなときは「空手をやっていますので」といつも答えていましたが、母は情けなかったようです(笑)
高学年になると空手に興味がなくなり、いったん道場はやめることにしました。
中学校では空手に熱中
中学に入っても相変わらず勉強が大嫌いでした。
漫画を描くことにも興味がなくなりなんとなく誘われてハンドボール部に入部しましたが、いつの間にか幽霊部員と化しました。
最初のテストの5教科の合計点が210点しかなく、その後は右片下がりで心と共に沈んでいきました。。
ある日、ハンドボール部員の目を逃れ幽霊のごとく下校しようとすると、校門でたむろしていた他校の不良集団に絡まれて怖い思いをしました。
「すみません」と謝り、悔し涙で眼がいっぱいになりながら帰宅しました。
そんなとき偶然テレビで映画「ベスト・キッド」を見て感動し、オレも強くなりたい!と決意しました。
情熱の炎を心に灯し、再び道場に通うようになりました。
道場にはALTのアメリカ人が来ていて仲良くなり、アメリカに魅了されました。
ベスト・キッドのように空手のチャンピオンに絶対なると決めて稽古に励みましたが、デビュー戦は1回戦反則負け。
この悔しさをバネに、勉強もせずにひたすら空手に打ち込むようになっていきました。
映画が大好きでハリウッド・スターのジャン・クロード・ヴァンダムに憧れ、お金を貯めていつかアメリカに行こうと決めました。
中学三年生から新聞配達をするようになり、自転車で足腰を鍛えながらお金を貯めていきました。(新聞配達は大学1年生まで続けた)。
高校生になると空手に夢中
あまりの成績の悪さに高校は諦めていましたが、空手のスポーツ推薦でとってくれる高校があったのでそこに決めました。
評判がよくない落ちこぼれが集まる高校でしたが、みんな落ちこぼれだと劣等感がなくて快適な高校生活を送れました。
朝から晩まで空手に打ち込むことができたので、県大会でも東海大会でも優勝することができ夢は叶いました。
大学でも空手漬けの日々
高校を卒業したらハリウッドに行こうと企んでいましたが、両親の反対と道場の師範のコネがあったので、大学のスポーツ推薦をすすめられました。
大学のパンフレットを見ると当時の空手部主将が「部活とアルバイトが両立できる!」とウソが書いてあったので、それを真に受けて入学しました。
案の定、部活ばかりでしかも上下関係がとても厳しかったので、2年生になる前に部活どころか大学も辞める決心をしました。
気づかれないように部室から荷物をまとめて駅で電車を待っていると、先輩とバッタリ出くわしてし車内で諭されて退学は踏みとどまりました。
貯めたお金で一度自分の目でハリウッドを見たい!と思い、春休みに2週間ほどロサンゼルスに一人旅しました。
そこで運よく千葉真一さん、ジャッキー・チェン、スティーブン・セーガル、画家の工藤村正先生に出会いうことができました。
行動すれば、思ってもみない人たちに出会えるものだと思いました。
帰国後は、みんなのおかげで大学に入れたのだから4年間はがんばろうと決めて空手に打ち込みました。
東海大会では2位止まりでしたが県大会では何度か優勝でき、岐阜県中量級代表として国体にも出場できました。
いざ、ハリウッドへ
と思い、大学卒業後はハリウッドに行くつもりでいましたが、まわりの反対は相変わらずでどうしようか困っていました。
あるとき偉い先生がお亡くなりになられたので、お葬式に行くことになりました。
そこで道場の師範が偉い先生方に私のことを相談したところ「おまえジャイカ(JICA・国際協力機構)に行けよ!」とすすめられました。
ジャマイカみたいな名前のその国は熱いのかな、などと困惑しましたが、キャリアを積むために渋々そこに行くことに決めました。
よく調べてみると、JICA(国際協力機構)の青年海外協力隊のことでした。
募集要項を見ると「ボリビアの首都ラパスの国家警察学校で空手を指導する」とあり、首都の標高が富士山と同じ高さで酸素が薄いとありました。
ここで2年間高地トレーニングをすれば、強くなれるかもと期待しました。(結果的に、標高が高過ぎて血中のヘモグロビンが劇的に増え、低地に降りると過呼吸で苦しくなるので思うように動けませんでした)
単位ギリギリで卒業。
青年海外協力隊でボリビアの首都ラパスへ
大学卒業後は深夜から朝まで牛乳配達の仕事をして、昼から夕方まではトレーニングをして、夜は空手道場で稽古するという生活を1年間続けました。
試験に合格し、東京の広尾訓練所で3か月間みっちりスペイン語と現地情報の研修を受け、2000年4月にボリビアへ出発しました。
現地での1か月間の語学訓練の後、ボリビア国家警察学校で空手教官として任務に当たりました。
最初の半年は、異文化の風にさらされて驚きと感動のうちに過ぎていきましたが、1年が過ぎる頃になると異文化のストレスで精神的に苦しくなってきました。
追い討ちをかけるように「幼馴染の子が亡くなった」と実家から知らせが入り、苦しくて悲しい日々を過ごしていました。
しかし、着任2年目なにると帰国まであと1年しかないので、心は帰国モードに入ります。
言葉もよく話せるようになったので、段々と楽しくなってきました。
暇な時間が結構あり、自宅近くに偶然アクリル絵の具を売る店があったので、中学生以来使ったことがなかった絵の具で描いてみることにしました。
予想外にうまく描けて面白かったので、描いたものを日本人が集まる場所にさり気なく貼っておきました。
すると、とても評判が良かったので、画家なれたらとを考えるようになりました。
ボリビアで中身が濃い2年間を過ごし、現地の親友たちに涙の別れを告げ、夢にまで見た日本へいざ帰国します。
逆カルチャーショックでノイローゼになる
数日間東京に滞在して帰国手続きを終えて、さっそく新幹線で帰宅しました。
たった2年間でしたが、世間は色々変わっていて浦島太郎のようでした。
急激に環境が変わったので、精神が混乱しました。
ハリウッドスターへの憧れはすでになくなっており、画家になりたいと思うようなっていたので図書館に通い独学で技法を学びました。
とりあえず働かなければと思い車体工場で昼も夜も働いていましたが、単調な作業に精神的に耐えられず長続きしませんでした。
2年間でガラリと価値観が変わっていたことに、自分でも気が付いていませんでした。
旧友たちに再会しては話が合わず、ケンカして帰って来るということを繰り返すうちに、段々と日本にいるのが嫌でノイローゼになりました。
ラオスで空手を教える
鬱々とした日々を送っていると青年海外協力隊事務局から「ラオスに空手を教えに行きませんか」と電話がありました。
すぐに承諾し、1か月後には一人でラオスに渡りました。
ラオスでは空手道連盟に所属して、ナショナルチームの指導に当たりました。
現地には日本語が堪能なラオスの指導員と、3か月間楽しく空手を指導することができました。
ここでの暮らしは、心をリフレッシュさせる効果がありました。
ロサンゼルスで絵の修行
ラオスから帰国してから色々なアルバイトをして絵を描いていると、ふと学生時代にロサンゼルスに一人旅をして知り合った、アメリカで大成功した画家・工藤村正先生のことを思い出しました。
メールで「アメリカでアーティストになりたいんです!」と、長々と熱い文章を書いて送ると「じゃあ、来れば」とすぐに返事が来ました。
2週間後には、ロサンゼルスに旅立ちました。
サンタモニカにあるクドウ・スタジオでは、数人のアーティストが住み込みで創作活動をしていました。
このスタジオで1か月の間、雑用をしながら創作活動をさせてもらいました。
プロのアーティストの仕事を間近で見ることができ、とても勉強になり工藤先生には本当に感謝しています。
ビザもお金も持ってなかったためいったん帰国し、再びロスへ行くためにアルバイトをしてお金を貯めていました。
ある日突然、「君よりもっとプロ志向が高い青年が来て場所がないけど、来たかったら来なさい」というようなメールが来たのでショックを受けました。
落ち込んだ日々を過ごしていると、青年海外協力隊事務局に勤める友人から「スリランカに空手教えに行かない?」と電話があり、1か月後にはスリランカに渡りました。
つづいてスリランカ、エルサルバドルへ
スリランカへ赴任し、2週間ほど現地のナショナルチームに指導をする傍ら選手と一緒に汗を流しました。
帰国後「エルサルバドルにも行けますよ」ということで、さっそく手続きをして首都のサンサルバドルで1か月間指導に行きました。
日本に帰ってからは本格的に画業を広げようと、近所のギャラリーを併設した喫茶店で生まれて初めて個展を開きました。
まったく素人でどうやったいいのかわかりませんでしたが、友人知人が大勢来てくれてとても感動しました。
そして フィジーへ
フィジーにも半年間、空手の指導に行けることになりました。
南国の生活にずっと憧れていましたが、こんなふうに夢が叶うとは思ってもみませんでした。
ここで自宅近所に住む、同じ青年海外協力隊で来ていた後に妻となる女性と出会いました。
帰国して3年後ぐらいに、その女性と結婚しました。
画家になる
とずっと思い続け、描いていました。
やっぱり東京だなと思い、毎年東京ビッグサイトで開かれるデザインフェスタに出展しました。
そこで画廊の社長の目に留まり名刺をもらいましたが、もしかするこれで終わりかもしれないと思い、翌日飛び込みでその画廊に行きました。
いきなり現れたので社長はびっくりしていたところ、のちにお世話になる銀座のギャラリーの社長がやって来ました。
その銀座のギャラリーの社長に気に入ってもらい「うちの営業スタッフがOKしたらいいよ」ということでした。
翌日ギャラリーを訪問するとOKをいただき、画家として仕事をさせてもらえることになりました。
これでひとまず、夢は叶いました。
仕事として 絵を描く
仕事として絵を描くようになると自信がつき、絵が成長したように感じることがよくありました。
ギャラリーのスタッフはユーモラスな人たちばかりで、楽しく仕事することができました。
子供が生まれる
数年はのんびりと新婚生活をするつもりでしたが、約10か月後には長男が誕生しました。
私はずっと家で絵を描いているので「育児は任せといて!」と妻にイクメン宣言をしたところから、人生は大きく変化していきました。
育児を甘く見ていました。
ドタバタの生活が続き絵を描く時間が極端に減ったので、夜中に無理して起きて描いていたら肺炎になって入院したこともありました。
マイペースが許されない育児の凄まじさを思い知ることとなりました。
翌年には長女が生まれ、まるでラットマシーンの上で必死に走っているような生活でした。
子供の生命力の強さと、大人の精神の脆さを同時に思い知りました。
ギャラリーが倒産
あるとき、自分が所属しているギャラリーが倒産したことを知り茫然としました。
「父さんが所属するギャラリーが、倒産・・・」
「まぁ、いっか・・・、仕方がないな」
これは人生のターニングポイントかも、と前向きにとらえることにしました。
育児は相変わらず大変でしたが、売れるために描かなければならない志向から解放されて心が自由になりました。
海外はどうかと思い、アメリカのギャラリーに画像を送ったりしてアプローチしていましたが、段々と、誰かの趣向に左右されずに、自分が本当に描きたいものを純粋に描きたいと思うようななりました。
心から出たイメージを心で描く
絵を描き始めた頃は、この絵を見て明るく楽しくなってもらったら嬉しいと思っていたことを思い出しました。
暗くて沈んだ気分になったときに、そっと寄り添うようなやさしい絵を描きたいと思っていたことを思い出しました。
そして現在、それに近づけるように活動しています!