フィジー日記・その20

小松辰夫投手のサイン

2007年12月22日

昨日、実家がやきそば屋だった、ということを書いて思い出したことがありました。

小学六年生のときのことです。

同級生の親が自動車で、私たちをナゴヤ球場の中日対巨人戦に連れて行ってくれました。

この試合の帰りの途中、信号で止まると横のタクシーにはあの時ルーキーだった立浪和義選手と中村武選手がユニフォーム姿で乗っているではありませんか。

私たちはそのタクシーを尾行し、ドラゴンズの宿舎に辿り着きました。

自動車を降りるなり、立浪選手と中村選手にみんなで抱きつきました。

色紙やサインペンは持ってなかったので、サインはしてもらえずとても残念でした。

数ヵ月後、またナゴヤ球場に連れて行ってくれるというので、今度は色紙とサインペンを買って持っていきました。

家族に、絶対サインをもらってくるから、と張り切って家を出ました。

帰り道は、以前のように運よく選手に会えることはできなかったのでこの前のようにドラゴンズの宿舎に行きました。

選手はもう宿舎に入ってしまっていたので、誰にも会うことはできませんでした。

自宅に到着したのは、夜11時ぐらいでした。

あれだけ張り切って家を出たのに、手ぶらで帰るわけにはいきませんでした。

家の前のガードレールに腰を掛け考えました。そういえば、あのイチロー選手も憧れた、私も大好きだった当時の中日のエース・小松辰夫選手のサインボールを買ったことを思い出しました。

バッグからサインボールを取り出し、それを真似て色紙に自分でサインしました。

それを家に持ち帰り堂々とみんなに見せました。

みな感動して母が、店に飾ってお客さんに見てもらおう、と言い出しました。

とうとう嘘だとは言えず、翌日、小松選手の偽サイン色紙が大切にビニールに包まれて店に飾られたのでした。

店はたくさんのお客さんが来て、昼時は満員になります。

多くのお客さんがその偽サイン色紙を見て、小松って字が汚ねえなあ、と言ったそうです。

というのも、サインだけ書いても誰のものだかわからないと思ったので、横に「小松辰夫」と書き、それも本人が書いたと嘘を言ってしまったからです。

時間が経過するにつれ、「あれは自分で書いた」となかなか言い出せず数年間、その偽サイン色紙は、店の高いところに大切に飾られ、お客さんから批評されていたのでした・・・。

店を畳んで数年後、母が妹と押入れを掃除していたら偽サイン色紙が出てきました。

このときまでこの色紙の存在を忘れていましたが、もう本当のことを言っても大丈夫だろうと思い正直に「これは自分で書いた」と言いました。

すると母と妹は苦笑いをし、お前やってくれたな・・・という顔をして私を見ました。今でも、あの気まずい空気の流れを忘れることはできません。

その後の数日間、花村家では、私は「オオカミ少年」のレッテルを貼られたのでした。

深夜に携帯電話が鳴る

2007年12月23日

二日前の深夜1時頃、日本から持ってきた海外でも使える携帯電話が、突然鳴りました。

着信を見ると「父」と表示されています。

父から電話が掛かってくることなどないので、もしかして家族に何か大変なことが起きたのかも!と思い、心臓が破れるくらい不安になり電話を取りました。

私「もしもし・・・」

父「おい、もうそろそろ迎えにきてくれんか」

この父の呂律が回らない言葉を聞いて、私は、この人はもしかして天国に電話しているつもりなのだろうか、と思いました。

おそらく家族に何かあり、そのショックで父はボケてしまったのだと想像しました。

私は、胸が詰まり苦しくなりましたが、覚悟して訊きました。

私「何があったの!?」

父「何があったの?って、忘年会やないか」

私「は????」

父「お前、いまどこにいるんや?」

私「どこって、フィジーでしょ・・・・」

父「あれ?お前、弘幸か?あっ!間違えた!」

この日忘年会があったようで、弟に迎いの電話をしたつもりが、酔っ払って私の携帯に電話したらしい・・・。

父「おお、久しぶりやなあ。話せて丁度よかった。ほんなら元気でやれよ。プツッ!」

と呂律が回らない声でしゃべり、電話を切りました。

まったく人騒がせで迷惑な電話でした。

でも、父がボケてなくてよかったです。

 

ABOUTこの記事をかいた人

フリーランスの画家として活動しています。 愛知大学卒業後、青年海外協力隊で南米ボリビアの首都ラ・パスの国家警察学校で空手に当たる。現地で絵を描く楽しさを知り、帰国後独学で技法を学ぶ。その後、創作活動をして個展を開催する傍ら、ラオス、スリランカ、エルサルバドル、フィジーに空手の指導に当たる。今までの経験を創作に活かし「明るく、楽しく、やさしい絵」をモットーに元気に活動中。